LOGIN一体、石場は何をしようとしているのか。 両親を「静かな場所」へ連れて行くと言ったが、それは単なる物理的な移動を意味するのか、それとも何か他に意味があるのだろうか…… 彼にとっての『救済』が、もし生物としての機能を止めることだとしたら……? まさか……両親を消そうと? リサは首を激しく振った。 いや、決めつけてはいけない。美咲が信じるように、彼はただ純粋に、両親を恐怖から守りたいだけかもしれない。 だが、その純粋さが歪んだ形で暴走すれば、取り返しのつかない結果を招くこともある。 そして何より、相手はあの父親だ。 幼い頃から石場を支配し続けてきた冷徹な男──彼が息子の「純粋な善意」など理解するはずがない。 もし息子が「静かな場所」を求めて動き出したなら、父親は、その意味を曲解するのではないか。そして。こう決めつけるはずだ。行き先は、かつて自分が息子を閉じ込め、支配していたあの「土倉」しかないと…… 許可なく自分を連れ出し、あろうことか自身の罪の証でもある場所へ戻ろうとする行為── それは父親にとって許しがたい「支配への反逆」であり、自らの立場を脅かす「制御不能な暴走」としか映らないだろう。そう判断した時、あの父親は自己保身のために何をしでかすか分からない。「止めなきゃ……」 最悪の未来図が一瞬で頭を駆け抜け、リサの背筋が強張った。 石場の歪んだ善意と、父親の冷酷な自己保身が衝突する。きっと、その衝突は、ただの言葉や視線の応酬では終わらない。 互いの存在そのものが相手を否定し、押し潰そうとする力を帯びている。 リサの脳裏に浮かぶのは、二人が対峙する光景だった。「美咲、車へ! 急いで!」 リサが叫ぶ。「どうしたの!?」「石場が動いたの。両親を『静かな場所』へ連れて行くって……。何か取り返しのつかないことをしようとしているのかもしれない」 石場が怪物なのか迷子なのか、正直よく分からない。だけど嫌な予感がする。「静かな場所……?」 美咲が呟く。「土倉よ。エミリアの日記に書いてあった『音のない世界』に共通するもの──彼にとっての聖域は、あの土倉しかない」「土倉? でも、あそこは彼が虐待を受けていた場所じゃないの?」 美咲が信じられないといった顔で食い下がった。雨に濡れるのも構わず、彼女はリサの腕を掴む。彼女の常識では、そこは
その時──緊張を裂くように、リサのポケットの中でスマートフォンが震えた。 唐突な振動に、リサはビクリと肩を震わせる。 画面には「非通知」の文字。 嫌な予感が胸を締め付ける。 このタイミングでの非通知──まるで誰かがこちらの行動を監視し、見計らってかけてきたかのようだ。 リサは美咲と視線を交わし、震える指で通話ボタンを押す。「……はい」『……母さんを、虐めたね』 低く湿った声。感情の欠片もなく、削ぎ落とされた響きが雨音と混じり合う。受話口から冷たい水が流れ込んでくるような錯覚に、リサは息を呑んだ。 聞き覚えのない声──一体、誰なのか。ただ、その言葉の異様さが胸を締め付ける。 電話の主は『母さんを、虐めたね』と言った……「まさか……」 リサの頬から一気に血の気が引いた。「石場……さん?」 喉の奥から絞り出した声はかすれている。恐怖に押し出された声だ。 リサは弾かれたように視線を巡らせた。──どこかで見ている? 雨に煙る河川敷、風にざわめく濡れた茂み。その暗がりの奥底から、粘着質な視線がじっとこちらを射抜いている──そんなおぞましい気配に肌が粟立つ。『母さんは震えていたよ。可哀想に……。せっかく僕が守ってあげていたのに』 石場は私が佐和子に接触したことを知っている。佐和子が報告したのか、それとも、ずっと監視でもしていたか。『父さんも母さんも、弱すぎるんだ。外の音に惑わされて、すぐに怯える。……だから、もっと静かな場所に連れて行ってあげなきゃいけない』 リサの心臓を氷の刃が撫でるような感覚が走る。「連れて行く……? どこへ?」『君たちには関係ないよ。……でも、一つだけ教えてあげる』 声のトーンが、ふっと柔らかくなった。 それは慈悲のようであり、死刑宣告のようでもあった。『……もう、誰も怯えなくていいように。僕が、音を消してあげるんだ』 そこで通話が切れた。 ツーツーという電子音が、雨音にかき消される。 リサはスマートフォンを握りしめたまま、呆然と立ち尽くした。 音を消してあげる── その言葉の冷たい響きがリサの思考を凍りつかせる。力の加減を知らない子供が、壊れた玩具を無理やり直そうとするような、無垢な善意── リサには、そう聞こえた。
「……分かる気がする」 美咲が呟いた。「この音の中にいると、自分が誰なのか分からなくなる。……彼も、この音の中で自分を消していたのね」 その時、リサがハッと顔を上げ、数メートル先の茂みに目を凝らした。 踏み荒らされた草。そして泥の上に残された無数の足跡──誰かがいた形跡がある。 足跡は川の方へ向かい、立ち尽くした後、ふらつくような足取りで、道路の方へと戻っている。 狭い範囲を何度も往復し、同じ場所を執拗に踏み荒らした跡だ。まるで檻の中の獣が徘徊していたかのように、地面は不自然に乱れていた。「誰か……来ていたみたいね」 リサが足跡を目で追うと、ガードレールの近くに、泥にまみれた何かが落ちているのに気づいた。 リサは駆け寄り、それを拾い上げた。 小さな金属製のボタンだ。アンティーク調の、少し変わったデザインをしている。「これって……」 リサの脳裏に、ある記憶がよぎる。 カフェで美咲に見せてもらった写真──エミリアと話していた石場が着ていた古びたコート。 不鮮明な記憶だが、確かこんな風合いのボタンが付いていたような気がする。 だが、確証はない。どこにでもある既製品かもしれない。「何か見つけたの?」 美咲が不安そうに覗き込む。「美咲、これを見て。見憶えない?」 リサは泥を払い、そのボタンを美咲に差し出した。 美咲はそれを覗き込み、息を呑んだ。「まさか、石場が着ていたコートのボタンじゃ……」 二人の視線が交錯する。「ここに来たのかな」 美咲が震える声で呟く。 リサは足元の泥を指差した。 この場所に石場が来たのだとしたら、一体、何の為に…… 何かを探していたのだろうか。 そうではないとしたら、とても正常な精神状態とは思えない、激しい葛藤と混乱の痕跡──「ここに誰かがいたのは間違いない。……そして、ひどく取り乱していた」 美咲の顔色が蒼白になる。 この異常な徘徊癖── カフェの店員や同僚たちが語っていた、石場の奇行と重なる。いや、それ以上だ。 泥に残された足跡の乱れは、彼がここで何か恐ろしい記憶と格闘し、発狂寸前だったことを物語っているようだった。
リサの車は、市街地を抜けて郊外の河川敷へと向かった。 ワイパーが追いつかないほどの豪雨。視界は白く煙り、世界が水の中に沈んでいくようだ。ハンドルを押し込む掌に汗が滲み、革の感触がじっとりと伝わってくる。 救えなかった依頼人の記憶が、雨音とともに胸を締め付ける。──私はまた、同じ過ちを繰り返そうとしているのではないか? あの時と同じ間違いは、もう二度としたくはない。 表面的な「不審者」という情報だけで石場を犯人と決めつけ、その背後に潜むかもしれない「真の支配構造」を見落とすわけにはいかないのだ。 リサの視線は前方の雨に釘付けになっていた。ワイパーが必死に水を払っても、彼女の目は焦点を結ばず、どこか遠い過去を見ているようだった。 雨の向こうに映っているのは現実ではなく、過去の影…… ハンドルを握る手は固くこわばり、指先が白くなっている。呼吸は浅く速く、胸の奥で何かを押し殺すように震えていた。「リサ? 大丈夫?」 助手席の美咲が、心配そうに声をかける。 リサは短く息を吐き、頷いた。「……ごめん、昔のことを思い出していたの」 急がないと手遅れになる気がする── 車は水飛沫を上げながら、河川敷の駐車場に滑り込んだ。 二人は車を降り、傘を差して堤防の上に立った。 眼下には、茶色く濁った水がうねりを上げて流れている。数十年前、ここで幼い兄弟の運命が分かれた場所だ。 周囲を見渡すと、護岸のコンクリートは長年の風雨に晒されて黒ずみ、所々に走る亀裂からは夏草が枯れたままへばりついていた。 あれから二十数年もの時が流れているというのに、大規模な改修工事が行われた形跡はどこにもない。 錆びついた手すり、ひび割れた舗装、そして荒れ狂う川面── 目の前に広がる光景は、あの日、幼い兄弟が直面したであろう残酷なまでの荒涼さを、そのまま現代に留めているようだった。「ここね」 リサが大声で言った。激しい雨音に負けないように声を張り上げる。「記事によれば、和弘が立っていたのはこの場所よ」 美咲は柵を握りしめ、濁流を見つめた。 轟音が鳴り響いている。 川の水の音と、雨の音── これだけの音に包まれたら、人の声など届かない。 世界から切り離されたような孤独感だ。 時が止まったようなこの場所で、かつての少年もまた、轟音の中に立ち尽くしていたのだろうか
リサは一度言葉を切り、美咲が持参したスケッチブックと楽譜に再び視線を落とした。『Kへの手紙』──エミリアが石場に託した、魂の共鳴の証。 私がアパートで感じた底知れぬ闇と、目の前にある純粋な魂の交流の記録── この二つの石場像は、あまりにも矛盾している。感情が欠落した人間に、音楽の深い悲しみを理解できるはずがない。 リサは唇を噛み、視線を記事と楽譜の間で行き来させた。「どちらが本当の石場なんだろうね……」 その言葉は、美咲の胸にも突き刺さる。「怪物なのか、迷子なのか……。私たちが見ているのは、同じ人間なのに、まるで二つの顔が重なっているみたい」 美咲は震える声で応じた。 二人は互いに視線を交わした。 その瞳には、答えの見えない迷路に迷い込んだ者同士の困惑が映っている。 もし石場が怪物であるなら、この楽譜に込められたエミリアの想いは一体どうなるのか。彼女は虚像を見ていたことになる……。たとえ、それが虚像であろうと、一時的な安らぎであろうと構わなかったのかもしれないが…… もし石場が「迷子」であったなら、そして、もし彼が本当にエミリアを殺していないのだとしたら、彼女はどこへ消えたのか?「美咲、あなたの直感と、この楽譜が正しければ……石場和弘は怪物じゃない。ただの傷ついた『迷子』よ。だとしたら、彼を怪物に仕立て上げ、罪を被せようとしている『本当の怪物』が別にいるはず」 楽譜に刻まれた旋律は、彼女自身の孤独の叫び──「つまり……本当の怪物は、まだ暗闇の中にいるってことね」 美咲はリサを見据え、そっと呟いた。 二人の間に、再び重たい沈黙が落ちる。 雨音が窓を叩き続ける中、父親の影がじわりと場面全体を覆い始めていた。「行ってみない?」 リサが意を決したように言った。「彼が兄を見殺しにしたのか、それとも悲しみの中で立ち尽くしていただけなのか。その原点を見れば、エミリアに対して何をしたのかも分かるはずよ」「原点……」「兄が亡くなった川よ。……今なら、雨が降っている」 リサは伝票を掴み、立ち上がった。 相反する証拠を手にした二人が向かうのは、すべての因縁が渦巻く過去の現場── 外の雨音は、さらに激しさを増していた。それは石場の意識を覚醒させる呼び鈴のように、街全体に響き渡っていた。
「それが違うかもしれないのよ、リサ」 美咲は視線を逸らしながら、ゆっくりと言葉を置いた。「美咲?」「あの日、倉庫で追いかけられた時の恐怖は、今でも消えていないわ。あの時の彼は、言葉も通じない獣みたいだった。……だから、彼が危険だということは身に染みて分かってる」 美咲は自身の腕を抱きしめるようにさすった。蘇る恐怖を必死に抑え込んでいるようだ。「でもね、リサ。これを見て」 美咲はバッグから、大切そうに包まれたスケッチブックと一枚の楽譜を取り出して、テーブルに広げた。「これは……?」「エミリアの日記と、彼女が書いた楽譜よ。アレックスの家で見つけたの」 リサは手書きの譜面に目を落とした。 タイトルには『Kへの手紙』とある。「『K』……和弘のこと?」 リサが眉をひそめて呟いた。「たぶんね。エミリアの日記には、こう書いてあったわ。『彼の目には、私と同じ色が宿っている。世界から弾き出された、迷子のような色』って」 そう言って、美咲は苦しげに顔を歪めた。 過去にピアノを弾いていたから分かる。複雑で、どこか物悲しい旋律…… その下の余白に、エミリアの筆跡でメッセージが記されていた。『あなたが聴いてくれたから、私はひとりじゃなかった。ありがとう。私の、たった一人の共鳴者(リスナー)』「リサ、わたし分からないの。私が倉庫で見た『怪物』のような彼と、エミリアが見ていた『孤独な迷子』のような彼。……どっちが本当の彼なのか。それとも、私の目が恐怖で曇っていただけなの?」 美咲の声は震えていた。楽譜が示す「理解者」としての石場を信じたい気持ちと、自身の体験した恐怖が矛盾し、彼女の中で答えが出せずにいる。 リサはスケッチブックのページを開いた。 そこに綴られていたのは、ストーカー被害の恐怖などではなかった。 そこにはカフェの片隅で一人佇む男のスケッチがあった。背中を丸め、周囲の雑踏から切り離された孤独な男。石場だろう。 しかし、その絵から受ける印象は、不気味さではなく、胸が締め付けられるような切実な寂しさだった。エミリアの温かい眼差しが、鉛筆の線一つ一つに宿っている。「エミリアは彼を恐れていなかった。むしろ、自分と同じ、音のない世界を持つ彼に救いを感じていたのよ」 美咲はリサを見つめた。「リサ、あなたが妹から聞いた、兄の遺影の前で笑っていた。と